キューバの観光地とはいったいどこなのでしょうか?キューバという地を観光案内している現地バスガイドさん。
バスの移動中にアナウンスしてくださったキューバのハバナ地区を中心に紹介していただいた内容を文字起こししてみました。
キューバ/ハバナ観光ガイドさんのバスアナウンス
キューバはスペインの植民地でした。スペインは南米に植民地をたくさん持っていました。南米から金銀財宝を収奪して、ヨーロッパに運ぶために必ずキューバに一旦寄港していました。その為にメキシコ系の船もキューバに一旦入港し、それからヨーロッパ(ローマ)へと向かうカタチとなっていました。
キューバには支倉常長の像
キューバのハバナには日本の仙台出身の支倉常長の像(はせくらつねなが)が立っています。支倉常長の像(はせくらつねなが)は、海に扇子を向けています。扇子の先はローマに続きます。
そしてその先には支倉常長(はせくらつねなが)の出身地である日本の仙台を指していると言われています。距離は約11850㎞です。
世界一美しいと言われるハバナの街
世界一美しいと言われるハバナの街を楽しんでください。
道角に布製の看板が立っています。この看板はカウントダウン形式になっています。499のところが白抜きになっていますが、ハバナの街は1519年に建設されたので、2019年には500周年へと修正されます。
500周年のお祝いをするため、街全体がパーティーの準備をしている状態です。キューバが綺麗に生まれ変わっている現在の状況です。
ハバナの街、旧市街は1982年世界遺産に登録されました。ハバナの街と、海沿いに見える4つの要塞。対岸にも2つの要塞が存在します。
4つの要塞の中で一番大きいのがカバーニャス要塞です。その前に灯台が見えます。この灯台は1640年に建設されたモーロ要塞です。海側にも要塞があります。これらの4つと旧市街がキューバの世界遺産となっています。
海の手前側に7という数字が白いコンクリートに飾りつけてあります。
この7という数字の意味は、世界の観光地人気投票でハバナの街が世界で7つの美しい街の一つに選ばれたという記念で、作られたモニュメントになります。
ハバナのマレコン通り
海の近くにある低い堤防が『マレコン』と呼ばれるものです。
1901年から建設が始められて、全長8キロに渡ってこの『マレコン』が続きます。
大きな要塞カバーニャとマレコンの通り、これらがハバナの代表的な美しいシンボルとなっています。
現在は、日中陽があたって暑くなっているので誰も座っていません。こちらのマレコン沿いは、夜になったらこの辺に住んでいる人たちが座り込んで涼みに来ます。それでハバナッ子の間で、マレコン沿いの辺りを世界で一番長い椅子、世界一長いベンチというふうに呼んでいます。
ハバナッ子は週末になるとマレコン沿いに集まってきます。お友達同士や親子連れ、恋人同士もいます。深夜1時、2 時までみんなでおしゃべりをして楽しく過ごすのがマレコンの風景となります。
また『マレコン』では、ジョギングをする人もいますし、魚釣りをする人もいます。最近では外国人が夕涼みに来るようになりました。
『マレコン』では特に夕日が沈むのを見るのが、キューバ人のみんなの楽しみになっています。絶好の場所ということでみんな『マレコン』に集まってくるのです。
ひときわ背が高いベージュ色の建物があります。キューバで最高の設備が整っている病院『ホスピタル・アメイヘイラス病院』です。こちらのアメイヘイラス病院 では臓器移植なども行われています。なんと、外国人の人たちも病院を受け入れられる体勢になっています。
双子の塔がちょっと乗っかっているホテルが、キューバ最高のランクを誇るホテル・ナショナル・デ・クーバです。1930年建設されました。国の文化財となっているたいへん格式の高いホテルで国際会議の舞台などに使われます。
アメリカとキューバ
小さなスペースの広場があります。ここは反帝国主義広場と呼ばれています。2000年に作られました。キューバから子どもと、母親が亡命しました。アメリカが亡命者を引き取りました。
キューバ側が亡命者を返すように交渉したことがあります。その時に作られました。この反帝国主義広場と面して向かい合うのが元アメリカ大使館になります。
アメリカ大使館の前には、たくさんのポールが並んでいます。このポールは、2000年以降に建てられたものです。アメリカの経済封鎖がキューバに対して行われました。そしてアメリカの破壊工作によってキューバ人がたくさん亡くなりました。アメリカの仕打ちに対する象徴としてポールが存在しています。
キューバの犠牲者を追悼する意味の旗を立てます。最近はあまりありませんが、作られた当初はよく真っ黒に一つ星の旗が建てられていました。
当時2004年、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ(En-us-George Walker Bush.ogg George Walker Bush)大統領、ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George Herbert Walker Bush)の息子です。
ブッシュ大統領がキューバに対して政策を変えようとするキャンペーンをアメリカ大使館のあたりに貼りました。多くの貼り紙キャンペーンを隠す為もあって、ポールを作ったそうです。
ハバナの新市街地
直線的な建物が多く存在します。ビジネスの中心である新市街です。
新市街地はハバナ圏になります。ハバナはキューバ全体でも小さいエリアです。その小さなエリアに住んでいる人口は210万人と飛び抜けて多いのです。
人口が特に集中したエリアです。高い建物はそれほどありません。普通の住宅地ですと2階くらいの建物が多いです。それだけに住宅が密集していて人口も過密気味です。
ベダード地区(新市街)
パセオ大通りの脇を通っていきます。こちらの街は大体1940年くらいに建設された街です。先に建設された旧市街はあまりにも道幅を取らずに家を詰め込みすぎて、この熱帯の気候では大変暑く風通しも悪い状態です。
道が狭いため車の通行もままならない設計になっていた反省から、大きい遊歩道を作りました。家の建設もゆったりと作られ、三軒から四軒の大きな邸宅が並ぶ感じで設計された街です。
海からすぐ上がってきた地域は特に建物の傷みが激しいです。その建物の傷みを守る為にマレコンが建設されました。キューバ市民が散歩道としてゆったり過ごせるように設計されました。
最近はハバナに大きなハリケーンが通っていきます。ハリケーンが直撃しなくてもら、洪水で大きな塩水の被害を受けることがあります。ハリケーン被害を受けたときには、世界中の友好国から支援を受けました。日本からもたくさんの支援を受けました。支援して貰った国にキューバは感謝しています。
ガラス貼りの建物は心臓の治療をする病院です。心臓疾患専門の病院が立ち並びます。キューバは医療が無料です。
内陸の建物
内陸の建物は海風があたらないため、海側に比べると保存がとても良いです。家の劣化が進みにくいので、このあたりの家の価格は高額になってきています。
しかし、邸宅と見て取れるものは大抵が国有化されています。革命直後、キューバは、社会主義的な政策になっていきます。
社会主義に反対した富裕層が、住んでいた家を置き亡命していきました。富裕層が住んでいた家は国有化していきまいた。現在では、会社の事務所、公共の施設に使われています。
革命広場
ハバナのもう一つのシンボルは革命広場です。革命広場はキューバ革命以前から建設されていました。もともと革命広場のデザインは公募されたものでした。
応募当時3名の人が最終選考に受かりましたが、当時独裁政権バチスタ大統領(フルヘンシオ・バティスタ)の友人だった人のデザインが採用されたと噂されています。
チェ・ゲバラのオブジェがかかっている建物は、警察などの内務省となっています。
そしてもう一つの建物には、ゲバラと一緒にキューバ革命の闘争を戦った国の英雄カミロ・シエンフェゴスが存在します。このあたりは情報通信省となっています。
革命広場の中心となるのが、国立図書館です。国立図書館の前方には軍の建物があります。近くにはホセ・マルティ・メモリアル記念塔があります。ホセ・マルティの像もあります。はエレベーターで最上階まで上がっていくことができます。
最上階からはハバナ全体を見渡すことができます。ハバナで一番高い塔です。そして、この場所は上空から見下ろすと星の形になっています。塔の後方に国のトップが出務(しゅつむ)する共産党ホームがあります。
革命広場は国家業務があると数十万人が集合する広場です。国のトップの演説や5月1日のメーデー(労働者の集まり)の時も国民が集合する広場になります。その他にも国際的なミュージシャンを呼んでの大コンサートなども開かれます。革命広場はキューバの人にとって大切な場所です。外国から来られた人にもオススメできる場所となります。
キューバの気温
キューバで記録された最高気温は38.5度。ハバナ側ではない、東のエリアで最高気温を記録しました。気温よりも太陽の日差しが強さく、比較的湿度も高い国がキューバです。気温以上に余計キューバを暑く感じるでしょう。
キューバは5月から11月までを雨季と考えています。7月と8月は雨が少ない雨季になります。それでも夕方4時から5時の時間にスコールのような雨が降ることがあります。少し離れた西の方では毎日夕方雨が降ったりします。
ハバナ大学
キューバ最高学部ハバナ大学は7月は夏休み中になります。ハバナ大学の休み中は若者向けの無料コンサートなどが行われています。コンサートは地元警察なども協力して、周りの道を全部通行止めにして行います。
ハバナ大学はキューバ革命のリーダー、フィデル・カストロが法律を学んだ大学です。キューバで一番歴史がある大学です。外国の留学生も広く受け入れています。ハバナ大学周辺は有名な学生街になります。
キューバ最古のハバナ大学は、1728年に創立されました。ラテンアメリカ大陸全体でみても最古の大学です。もともとは観光の中心地旧市街の中にありましたが、新市街に1900年代初頭に移されました。
アメリカ資本のヒルトンホテル
1950年キューバ革命以前にアメリカのヒルトン財閥によって作られたのが、ハバナ・ヒルトンホテルです。
キューバでは最初に建てられた鉄筋コンクリート設備のひとつです。当時では最先端の設備を投入して作られました。
新市街の目抜き通りでは革命広場にはない他の省庁がずらっと揃っています。新市街地にはWi-Fiスポットがたくさんあります。このあたりのWi-Fiスポットを使って他の国にいる家族や親戚と通信を楽しんでいる人たちが多いです。賑わいのある新市街で一番人通りの多い通りとなります。
アントニオ マセオ像
アントニオ マセオは、スペインからの独立戦争、第一次独立戦争から活躍した人物です。聖堂の巨人と言われてます。アントニオ マセオは1896年に亡くなりました。
ハバナのチャイナタウン
キューバは1800年半ばに中国からたくさんの移民を受け入れました。中国からキューバに働きにきました。スペインからの移民契約で、契約労働者ということで移り住みました。たいへん好条件で良い給料がもらえるという情報により、たくさんの中国人が入ってきました。
しかし、キューバに移り住んでみると、たいへんひどい環境で安い給料で働くことになりました。さとうきびの栽培や畑、鉄道建設関係の仕事をあてられることになりました。
1900年初頭に第二の移民が移り住みます。今度はアメリカのサンフランシスコにいた華僑の中国の人たちです。キューバに将来のビジネスチャンスを目指してたくさん入ってきました。
さとうきび畑などでほとんど奴隷のような条件で働いていた中国の人たちもサンフランシスコからきた有力な中国の人たちと一緒になってコミュニティーをつくりました。中華系のひとたちが、映画館や銀行、中国語の新聞を発行させました。様々な商売をして栄えていきました。
当時のキューバは中華系のひとがたいへん増えていきます。アメリカ大陸でサンフランシコに次ぐ中華街として発展していきました。
1959年キューバ革命が達成されました。当時のお金持ちの中華系の人たちは、社会主義を嫌ってアメリカに戻ったり、他の国に移り住むひとが多かったといいます。
今は第1世の人たちはいなくなっています。その子孫の人たちが若干数残っている状況です。
友愛公園とは
1928年にラテンアメリカの大統領が集まる国際会議がキューバでありました。その国際会議のときに各国大統領が自分の住む国の土を持ち寄りました。キューバの神聖な木セイバの根元に持ち寄った土をおいたことから友愛公園という名称になりました。
ちなみにセイバの木はキューバでは国民の精神的なシンボルとなる木です。
プエルト・リコのラム酒で有名バカルディ
プエルト・リコのラム酒で有名なバカルディのオーナーのバカルディが作った本社ビルがキューバにあります。今ではプエルト・リコのラム酒として世界で一番売れているラム酒として有名になっています。
キューバの国の英雄ホセ・マルティの銅像
第二次独立戦争の英雄で最高指揮官でありながら馬に乗って戦場に飛び出して被弾して亡くなる瞬間の銅像です。
本物はアメリカのセントラルパークにあります。
革命博物館は1920年に建設されたものです。あまりの美しさに大統領夫人が気に入って、石造りの邸宅から革命博物館に引っ越したいと希望出したそうです。それを大統領が叶えて大統領官邸となった場所です。
1957年、学生運動が発展してキューバ革命の若い革命軍が育ちつつありました。当時の革命軍が1957年に大統領官邸を襲撃します。
しかし失敗に終わります。若い革命家たちがたくさん命を落としました。生きて捕まった人たちは、その後バチスタ政権大統領の元、拷問によって殺されてしいました。キューバ革命以前は日常的に拷問が行われていました。
その時にバチスタ大統領のあまりの残酷さに大統領夫人が「どうか神様が大統領の野蛮な行動を許してくれるように」ということで海岸にキリストの像を建設しました。
国会議事堂
旧国会議事堂は1926年から3年の月日をかけて造られました。
1929年に国会議事堂としての機能が始まります。1902年キューバ共和国としてスペインから独立しました。スペインの支配からアメリカの支配に変わった独立とは名ばかりな状況でした。
1900年代のキューバは、アメリカの影響化にあった時代ですが、ローマにある議事堂がモデルになっています。キューバの国会議事堂はワシントンの連邦議事堂に似ていますが、アメリカを真似したわけではありません。
階段を上ったところには男性の像と女性の像があります。イタリア製です。
男性の像は労働。女性の像はキューバ人の持つ母性愛、慈愛の心を表しています。
アリシア・アロンソ大劇場
アリシア・アロンソ大劇場は1500人が収容できるクラシックバレーの本部です。毎年クラシックバレーフェスティバルが開催される大劇場です。アリシア・アロンソ大劇場は1838年に建設されました。世界でオペラ座、スカラ座に続く第三の重要性がある建物です。
スペインの植民地が始まる前にキューバに住んでいた、先住民はスペイン語で『インディヘナ/インディオ』と呼ばれていました。先住民の部族としては3種類があります。『グアナアタベイ』、『シボネイ』、『タイーノ』が住んでいたといわれています。
しかし、スペイン人がキューバに入植して約100年で絶滅してしまいます。今は全く先住民の血が残っていません。そのため先住民に関する文化や生活のほとんど残っていません。ただ、お酒の名前や地名に『グアナアタベイ』や『グア』などスペイン語にはない音が使われていて、それらは先住民の言葉になります。
キューバ観光といえば
バスガイドさんからのアナウンスはありませんでしたが、キューバといえばお酒、釣りをこよなく愛し、著書『老人と海』を生み出したノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイが有名です。ヘミングウェイのお気に入りの酒場には、ヘミングウェイの像が設置されています。 オールドハバナで『ヘミングウェイ』と出会ってみてはいかがでしょう。