ピースボートの始まりときっかけ
船内企画として行われたパネル講演です。企画タイトルは『いのちが大切にされる社会をつくるために、생명을 중요시하는 사회를 만들기위해、To build a just and equitable society、打造珍惜生命的社会』。備忘録として掲載してます。
Yaichi
1983年の9月2日にピースボートが始まりました。きっかけは、日本 の教科書と聞いています。日本では学校教育の教科書を文部省で検定しています。1983年当時、文部省が歴史教科書の検定を行った時、こういう文言がありました。「日本軍によるアジア侵略」その言葉を、「日本軍による アジア進出」に書き換えるという報道がなされました。その報道を聞いたときに、アジアの人たちが声を あげて、国際問題化しました。この報道を聞いた1980年当時の日本の大学生、のちのピースボートの創設メンバーが、 いまの日本だけでは知ることのできない事実があるのではないか、、あの時代どんなことがあったのだろう、自分たちで真実を知りたくなって、直接自分たちでアジアに行ってみよう、戦争のあった現場に訪れてみよう。当時の歴史の真実を知りたいということがきっかけで第1回目のピースボートの旅が始まりました。
Tam
当初は4人の大学生が始めました。直接行って、目で見て、目を見て話しをして聞かないとわからないことはたくさんある。帰ってきた若者たちは強くそれを実感したそうです。同時に、日本の中にいては、知 ることのできない過去の歴史はたくさんある。行って聞いて、その教科書が進出に書き換えられたということは、おかしいと実感して帰ってきました。そして、これをもっとたくさんの人に伝えたいなという思いから、本当は、大学生が夏休みの少し時間を使って1回で終わらせる予定だった旅でしたが、その後、2回目、3回目、3回目、4回目とずっと続いていくことになりました。ピースボートの1980年代は、クルーズの行った先のほとんどがアジア諸国になります。2週間から長くて3週間くらいの旅を行っていました。
Yaichi
第1回目のピースボートの航路は、13日間でした。第2次世界大戦で訪れた、硫黄島、グアム、サイパン辺りを中心に訪れています。
Tam
にほん丸という船で159名で行きました。
Tomy
皆さんも世界一周中に実際に訪れて初めて気づいたことが実体験としてあると思います。4人の大学生のうち、現職で働いているスタッフは1人です。吉岡達也(よしおかたつや)さんです。ピースボート出身者で有名になった人としては、 国会議員の辻元清美(ツジモトキヨミ)さんがいます。政界(政治の世界)に行かれた時点で、ピースボートは退職しています。現在のピースボート活動には関わり はありません。
(参考サイト https://www.kiyomi.gr.jp/info/15/)
ピースボートの第二回のコースは?
(参考サイト https://www.kiyomi.gr.jp/info/15/)
ピースボートの第二回のコースは?
Yaichi
1984年9月2日に出発しています。上海、香港を周る航路でした。第2回クルーズで乗船された水先案内人(ピースボートの応援ゲスト)としては、日本では最も有名な漫画家の1人である、手塚治虫(テヅカオサム)さんです。手塚治虫さんは、元々アジアの人と交流したいという気持ちがありました。ピースボートの活動を組みとって、一緒に行きたいと来てくれたそうです。
(映像流れる)
(映像流れる)
Tam
南京大虐殺の場所まで行って、生存者の話を聞き、本船まで帰って来てから。
Yaichi
日中交流を開催しています。その名も『日中漫画大会』。中国の漫画家さんが描いた絵と手塚治虫さんが描いた絵。友好関係の証と2人の描いた絵が手を繋いでいる様子が受け取れます。鉄腕アトムと孫悟空のキャラクターが握手をしています。
Tomy
手塚治虫さんが水先案内人(ゲスト)として乗船されるにあたり、ピースボートのスタッフはかなり声をかけて、乗船していただいています。ピースボートクルーズでは、たくさんの水先案内人の方に乗船していただいています。ピースボートのスタッフの乗って欲しいという想いと、趣旨(国際交流)への賛同をしていただいて、ボランティア(ノーギャラ)で乗っていただいています。
Tam
1985年に第3回ピースボートを開催します。
80年代は、歴史が動いた時代でした。激動の時代に、ピースボートは船を出し始めました。水先案 内人として関わっていただいている、日本のルポライターの鎌田慧(かまたさとし)さん。初めてピースボートに関わって くださったのが、この第3回目のクルーズになります。それ以来、度々ピースボートにご乗船くださいます。その鎌田さんがよくおっしゃるのは、「ピースボートの船で旅をすることは、歴史的な瞬間に立ち会 うことが多い。歴史の中を航海する旅である」と話しくださいます。なぜ鎌田さんがこうい う言葉を使うかというと、第3回目のクルーズの時に、一つ大きな出会いがあったからです。そ れは『ボートピープル』との出会い、遭遇でした。このクルーズは、船で訪れる最後の寄港地が、ベトナムでした。ベ トナム戦争が終わった後、ピースボートは、ベトナムに行くようになりました。ベトナムで大交流をして、現地の人たちが戦争後なのに、暖かく向かい入れてくれて、身振り手振りで人と人との交流とい うのをして感動的なお別れをしました。最後の寄港地ベトナムを出航して、日本に帰る、帰り道に『ボートピープル』と遭遇したのです。もちろん自分たちが遭遇するとは思っていませんでした。ベトナムで交流した時には、交流すると同時に、ベトナム戦争がどんな戦争だったのかを学ぶコースもありました。そんな時に『ボートピープル(難民)』と出会い、なんとも言えない気持ちになったと思います。
80年代は、歴史が動いた時代でした。激動の時代に、ピースボートは船を出し始めました。水先案 内人として関わっていただいている、日本のルポライターの鎌田慧(かまたさとし)さん。初めてピースボートに関わって くださったのが、この第3回目のクルーズになります。それ以来、度々ピースボートにご乗船くださいます。その鎌田さんがよくおっしゃるのは、「ピースボートの船で旅をすることは、歴史的な瞬間に立ち会 うことが多い。歴史の中を航海する旅である」と話しくださいます。なぜ鎌田さんがこうい う言葉を使うかというと、第3回目のクルーズの時に、一つ大きな出会いがあったからです。そ れは『ボートピープル』との出会い、遭遇でした。このクルーズは、船で訪れる最後の寄港地が、ベトナムでした。ベ トナム戦争が終わった後、ピースボートは、ベトナムに行くようになりました。ベトナムで大交流をして、現地の人たちが戦争後なのに、暖かく向かい入れてくれて、身振り手振りで人と人との交流とい うのをして感動的なお別れをしました。最後の寄港地ベトナムを出航して、日本に帰る、帰り道に『ボートピープル』と遭遇したのです。もちろん自分たちが遭遇するとは思っていませんでした。ベトナムで交流した時には、交流すると同時に、ベトナム戦争がどんな戦争だったのかを学ぶコースもありました。そんな時に『ボートピープル(難民)』と出会い、なんとも言えない気持ちになったと思います。
Yaichi
ベトナム戦争終結後の10年後である1985年にベトナム沖で小舟に乗っていた『ボート ピープル(難民)』との遭遇です。乗員・乗客の人たちが見つけました。『ボートピープル(難民)』を乗員・乗客で引っ張り上げます。ベトナムにいるのも危険。小舟に乗っ て逃げるのも危険。危険を犯してまでも、逃げなければいけない状況化にあるということを現実にした出来事です。(ピースボートでボートピープルを引き上げた)当時はニュースになっりました。ひっぱりあげられて難民の人たちは、日本に着いた後、九州の療養所で休み、カナダに亡命したそう。
Tomy
戦争が終わって10年たった状況でも、こういった戦争被害を受ける方々がいる。戦争が終わって、時が経っても終わら ない、、、戦争の悲惨さを感じられます。
Tam
それからは、1989年にピースボートげ初めての日本一周クルーズを企画します。日本以外のアジア諸国を周るというのをテーマにやっていたピースボートが、なぜ日本一周をしようとやったかという と、1980年代に『チェルノブイリ原発発電所事故』があったからです。それをきっかけに関わっていたスタッフが、「日本一周をしよう!日本国内の原発あっちこっち見聞録というタイトルでやろう!」という話しで決まったそうです。『チェルノブイリの原発事故』があったことによって、 世界中に大きな衝撃が走ります。日本国内では、原発は安全でクリーンなエネルギーであると当時ニュー スや新聞でうたわれていました。あまりにもその事故 のことを自分たちが見ているニュースや新聞と現実がかけ離れている。原発ってなんなんだろう?と、単純に思ったと聞きます。そこで、自分たちの国内にある原子力発電所に行って原発の位置、地域、どんなところに作られているのか、原発って一体なんなんだろう ということを目で見て学ぼうということで、原発あちこち見聞録という、日本一周の旅を計画しました。その後も、アジアを中心としたクルーズが続く。
Yaichi
1980年代でもっとも大きなニュースが世界中を駆け巡りました。1989年のベルリンの壁の崩壊です。東西冷戦が終 了を迎えたことによって、世界の流れも一気に変わっていきました。
Tam
ベルリンの壁崩壊というニュースをきっかけとして、地球一 周の船旅をやろうと決めます。ピースボートに関わっていた当時のスタッフは、「一体世界では何が起こっているのだろう。もっと世界中のことを知りたい、自分たちで世界を見て見たい、ヨーロッパ、中南米、アメリカ、南太平洋諸国、自分たちの目で見て見たい」という想いがでてきました。
2000年代みたいに、インターネットで情報が入ってくる時代ではなかっ たので、「やっぱり行ってみないとわからないことってある」そう考えて、次に行くのは地球一周だということで、企画したのです。
2000年代みたいに、インターネットで情報が入ってくる時代ではなかっ たので、「やっぱり行ってみないとわからないことってある」そう考えて、次に行くのは地球一周だということで、企画したのです。
Yaichi
ピースボート初の世界一周(地球一周)航路のスタート地点は地中海のギリシャからです。乗船する参加者も日本のみなさんが中心なので、一旦飛行機で日本からギリシャ まで行ってもらいます。そして、ギリシャの港から船が出港して世界一周(地球一周)をスタートさせます。船で寄稿する港の中には、広島、長崎も航路として入っていました。そして世界一周の最後の寄港地は スタートした地中海のギリシャになります。世界一周中には、現代の教科書に載っているようなニュースとも遭遇します。それは『湾岸戦争』が中東で開戦しました。インターネットがなかった当時ですが、ピースボートの船内でも情報シェアされました。そうして過ごす、ピースボー ト第10回クルーズの洋上生活のある日、ピースボートが『湾岸戦争』に向かう軍艦とすれ違います、そして、戦闘機に遭遇もしました。この時に、色んな国々の人と交流してきて各国の人々が考える平和。交流の大切さ、戦争の悲惨さを知ったピースボート参加者の有志は戦争(人が人を殺し合うこと)に対して反対の旗を作って、掲げたと聞きます。
Tam
ボートピープルと遭遇したという話もありました。鎌田彗(かまたさとし)さんもその様子を見て、「まさに歴史の中を航海する旅である」とおっしゃいましたが、この『湾岸戦争』という出来事も同じように、歴史と自分が直面し遭遇するというシーンだったと思います。 そして、第16回目のクルーズで、いよいよ日本発着の地球一周の船旅を行います。最初の地球一周クルーズは、ギリシャ発着でした。「もっと多くの人に世界を自分の目で見てきて欲しい」という気持ちがありました。「世界一周ギリシャ 発着って敷居(しきい)が高いよな」、「そこまで荷物を全部持っていかなければならない」、「帰り道も全部持って帰 らなければならないのは大変だな~」そこで実行したのが、日本発着(横浜港、神戸港)にしてしまおう。という計画が立ち上がりました。日本発着の世界一周を企画したのは、日本で初めてのことだったのです。「今の日本で100日間も超える長期の旅っていうのに参加できる人なんているわけない」と、色んな人に反対されてきたそうです。一緒 に企画しようとパートナーになってくれる旅行会社を探しても、「そんな旅行は日本では無理ですよ。」と 断られ、色んなところに話をし交渉し、やっと協力してもらうところを見つけてなんとか、日本の団体として戦後初の世界一周クルーズを実現しました。初の世界一周を実現する時期に、ピースボートのことをすごく応援してくださる若手新聞記者さんがこのピースボート、日本発着の地球一周をやるぞ。という ことを、(ばーんと)新聞に掲載してくださったと聞いています。新聞記事には、事務所の電話番号まで書いてあって、翌日か ら、電話問い合わせがすごくあって、あっという間に満席になったらしいです。(余談:ある時までバーンと載せてくれたんだよ。と いう風に吉岡達也から聞いていましたが、何年か前に、そのバーンっていう記事を見たらすごく小さかった。。。笑)満席になったものだから、ここからさらに何かし出すのがピースボートでした。「じゃあ、もう一隻借りよう」ってなりました。普通一隻で、日本国内じゃ絶対無理って言われていたと ころをなんとかやって新聞に載って満席になったからって、じゃあもう一隻借りよとなるところが面白いんですよね。二隻目もちゃんと満席になり、二隻同時の世界一周の船旅を出港させました。同時といっても、2席の船は2週間ほどの期間を空けて空いて出港しました。一隻目の世界一周船が出港して、2週間くらい空いてから、2隻目が出港しました。コースは同じです。世界各国の現地で迎えてくれる人たちも、「一隻目がきた!ようこそ~、二隻目もきた~!!」って歓迎してくれました。これもこれでおもしろかった そうです。今とは違って世界が遠い存在でしたので、熱狂的な歓迎ぶりだったそうです。それにしてもすごい行動力と、やる気ですよね。
Yaichi
1994年の第16回クルーズの後から、ピースボートは日本発着の世界一周クルーズを毎年のように 行うようになりました。年に一回くらいやっていくようになります。2000年から、一隻の船をチャーター して、1年間に3回世界一周をやっていく世界一周プロジェクトを行うようになりました。地球のどこかにピースボートの船が動いて いるという状況を作り上げていきます。そしてここであったのが、いつかは日本からだけではなくて、アジア地域や、ヨーロッパ、世界中の人たちが、船に自由に乗り降りして共に旅するということを夢見るようになっていきました。船の中で自然と国際交流を行う場をピースボートでできないかを考えます。
Tam
振り返ると、アジア→初の地球一周→1年に3回の地球一周するようになっていきます。、そしてアジアの人たち、世界中の人たちが乗れる船を夢見て進んできました。2007年からやっている、日韓共催のクルーズがあります。『ピースアンドグリーンボート』という名称でやっています。韓国の『環境財団』という国際NGOとの出会いがあって、『ピースアンドグリーンボート』クルーズを始めることになりました。乗船者は韓国の皆さんが半分(500名)、日本の皆さんが半分(500名)、という日韓の市民が一緒に船に乗り合わせて、 10日間ほどアジア地域を回っていこうという旅になります。東アジアという地域の持続可能で平和な社会を目指して、ともに交流し、語り学び合う旅として、年に1度のペースでやっていました。非常に大切な学びとが多い旅だということで続けているプロジェクトです。いまのピースボートには、各国からの参加者が乗船されています。ピースアンドグリーンボートから学び、得たものは、かなり生かされています。
Tomy
各国の方々(シンガポール、大陸、台湾、タイ、米国など)に、乗っていただけるようになったのも、このピー スアンドグリーンボートとの繋がりとノウハウができていたからだと思います。世界との繋がりが少しず つできてきたのもあって、最初の世界一周の時の夢、世界中のひとが乗ってくるような船にしたいという方針が一歩ずつ実現に向かっているような感じがします。
Yaichi
そして、様々な場所で『交流』していくというのがピースボートの根幹にはあります。プロ ジェクトもたくさんやってきましたが、その中のひとつに『おりづるプロジェクト』というのがあります。2008年から被爆者 を乗せた世界一周のクルーズを行なっています。世界中のNGOが協力して、『I can(アイキャン)』を設立しました。ピー スボートは『I can(アイキャン)』の国際運営団体の一つとなって活動を続けてきました。『I can(アイキャン)』としてノーベル平和賞を受賞しています。
ピースボートパネルトーク
地球一周の船内企画で行われた講演です。企画タイトルは『いのちが大切にされる社会をつくるために、생명을 중요시하는 사회를 만들기위해、To build a just and equitable society、打造珍惜生命的社会』。
Tomy
さまざまな国籍の人たちにも加わって[ 命が大切にされる社会とは]というトークテーマで経験談を語ってもらいます。
Daniel
過去のことから学ぶのは、非常に大切なことです。 わたしはオーストラリア出身です。旅を通して自分で学ぶとか自分で体験するなど、大切さを改めて知りました。『テヘラン平和博物館』のグループとであったことがきっかけです。テヘアラン というのは、中東にあるイランの首都になります。『テヘラン平和博物館』からのグループがピースボートに乗ってきました。『テヘラン平和博物館』のグループは、6人のおじいさんでした。6人のおじいさんはイラン・イラク戦争の生存者でした。1980年代、にあった戦争で、私は知識としてあんまり知りませんでした。中東にあるイランという国はオセアニアのオーストラリアから離れていたので詳しく知り ませんでした。そのイラン・イラク戦争には、化学兵器が使われていて、ぱっと見たら普通の元気なおじさんなんですが、よく見ると戦争の傷が残っていました。また、化学兵器の後遺症から、酸素ボンベをずっと持っていなければならないという、色々は不便や、歩行への困難がありました。なんとなく、『イラン・イラク戦争』という言葉は知っていたけど、実際に戦争体験者と会って話して、接して、少しだけどペルシア語を話せるようになって、やっぱり、彼らにとっては戦争は終わっ てなくて、毎日、後遺症に苦しめられ繰り返されている。こういうことをちゃんと知ることで、彼らみたいな人達 に対する配慮ができる。それがすごい大事で、過去のことも知らないと配慮ができないと思った。
Seung Jee
私は、『命が大切にされる社会』とは、どういう社会なんだろうというところから考え始めました。それは、紛争、戦争によって被害にあう方々がいない社会だと思います。そして、経済的な貧困や社会的な不平等、こういう構造的な問題によって、犠牲になる方々がいない社会であるということも考えられます。 数年前に、ネパールで大きな震災がありました。わたしは震災現場で、食料の配給や仮設住宅を作るボランティアをやっていました。現場に行く当初は、震災によって壊れた建物を普及することが大事であると、すごく単純 に思っていました。現場に入ったらすごく自分が思っていたことと異なっていました。例えば、この社会が元から抱え ていたいろんな構造的な問題が自然災害よりも人を苦しめるということに気がつきました。ようするに、社会が、そもそも経済的に貧しくて政治的にも力がない人たちが自然災害が起こった時にもっとも被害にあうんだなとすごく強く思うことになりました。私はネパールで11歳の女の子と話す機会があっ たのですが、彼女が住んでた村では12歳になったら必ず結婚しないといけないというルールがありました。そのルールを破ったら村から追い出されてしまうのです。そして、カースト制度の方々が一緒に住みながらこのレンガを作る工場で働いていました。その工場に訪れた時に、10 歳ぐらいの子ども達がずっとレンガを作っていました。日本円で、一日50円ほどの給料をもらいながら労働していました。やはり自然災害も大変なことなんですが、人間が作り上げた構造的なシステムによって苦し んだ人たちがいるんだと強く思う出来事でした。そして、このような問題をどのようにすれば解決できるのだ ろうとすごく悩み考えました。私たちみたい外国から来たボランティアは、ネパールを背負う子供たちが自分たちで教育を受けて自分たちの力で社会を変化させていけるように、サポートをしていく必要があると思いました。それが平和につながるんだと思うようになりました。そこから韓国に戻ってきてからネパールを支援する募金活動を していきました。最初の時は、支援用のポストカードを作成して販売して、たくさんの人た ちに協力を呼びかけるような仕事をやりました。今はネパールに図書館を作るという教育支援活動をするNGOと して三年くらい活動しています。一人一人の力は小さ いんですけど、命を大切にする社会を作るために、そして、平和な社会を作るために、知らなかっ たことを知ろうと努力する、そしてそれを知ることによって自分の力で何かをやるためにチャレンジす るということは本当に大切なんだなというに意識になりました。
Tam
スンジは22歳なんですけど、ピースボートをスタートさせたときの学生たちと同じ年齢です。、大学生という立場で、 自分で外に出て日本を出て現場に行き、ちょっといまの社会はおかしんじゃないかとか、じゃあもっとそれを自分たちの手でどうやったら変えれるかなって行動した、伝ないとダメだなっ て、伝えた、その部分はスンジがやって来たことというのに共通するものがあると思います。やっぱり自分で動くってすごく大事なことだなって、でもそれを実際にやるってこともなかなか難しいことと認識しています。
Tomy
ここで長年大学で教育に携わり、国際交流・文化交流を促進してきたえんさんにもコメント をもらいます。
En
ダニエルさんとスンジさんの話と経験を聞いて若い世代の力を感じています。とても嬉しく思っています。若者の力は限界かと思っていました。近年、 教育界で歴史を選択するより、多くの若者は心理学、観光客を選択する傾向があることが心配になっ ていました。しかし、今日、ピースボートの歴史の歩みを見てこれこそが、みなさんが努力して歩み寄っ て来た結果だと思います。35年前に第一歩を踏み出したのは、それはかな り難しい一歩だと思います。私はすごく、感動しました。さっきの歴史から思ったのは、私た ちは、歴史から学ぶべきです。今、こちらにいらっしゃる田村さん、磯部さん、富岡さん、の会話で、 当時の創設者は、今私たちが乗ってる、多国籍、多文化、平和のために船を出してるピースボートの成長を想像できないかもしれません。様々な国籍の私たちが今ここで集まって、お話することも奇跡だと思います。この第一歩を踏み出した時の物語などを、知 りたいですね。。
Tam
ピースボートの創設者のひとり吉岡達也(よしおかたつや)がスタートさせてから今日 までずっと一貫したテーマを持っています。現地のひとに「現場の人の声を聞きたいんです」と真摯に、みなさんの話しを聞きたいことをお願いします。、私たちがなぜ声を聞きたいかというと「未来に平和な社会を残したいからなんです」と話をして人々と出会うプログラムができます。そして、聞 いたことを私たちは伝えます。そうすると、訪れた先々のみなさんは、 ピースボートにとても協力的になって色々は話を聞かせてくれます。最後には、「一緒にがんばろうね」って挨拶になります。吉岡さんや、これまでピースボートを続けて来た現地の人との出会 いというのが、小さく積み重なって今があります。
Tomy
吉岡さんは、私もピースボートのスタッフになってから、会う機会も話す機会もあるんです けど、本当に人に、伝えようとするエネルギーがものすごくある人物です。 ピースボートのスタッフをやってその中で自分の伝えたいトピックが見つかって他の、ピースボートを退職して自分が関心を持って深めてきたことを生かして活躍している過去スタッフもいます。その人 たちも現地でなにか出会って学んで、知ったことを他の方に伝えたいと想いを持っている人がすごく多 いと感じています。
Yaichi
ピースボートのスタッフを辞めた後、いろんな場所でいろんなことを発信している人がいます。例えば、ルポライター、国連大使、政治家、青年の船のコーディネーター、自分の店をやってる、 社会学者など、様々な場所で活躍しています。 みんなの話を聞いていると、とてもまじめだなあと思いました。ぼくのピースボートに乗ったきっかけは、 ただ単純で、「観光がしたかった。世界遺産を見たかった。自慢したかった。」だけなんです。 当時、このピースボートに乗って観光して、ツアーとったりしてたんですけど、船に乗ってから、新しい新鮮なものに触れました。こんな考え方あるんだなとか、こういう発見もあるんだなという風に、自分の中に入ってきました。船でできた友だちから「交流コースをとってみたら?」と言われて、いくつか試しにとってみま した。もともと交流はする気がなかったんです。結果、3つか4つ交流コースを取りました。その交流コー スから一つのエピソードを紹介します。その中の1つで、中東のイスラエルにいる難民と交流をするコースがありました。聖地エルサレムに向かって、イスラエルの人たちと交流しながらも、 パレスチナの難民の人たちとも交流しようという、ピースボートならではのスタディツアーでした。当 然のことながら、遊び半分だし、ほぼ知識もなく現地に訪れました。正直な気持ちなんですけど、イスラエルのエ ルサレムというところに行ったんですけど、意外と都会だったんです。「こんなもんだよね、綺麗だよね」といっぱい写真撮って、エルサレムの観光地を後にしました。次、訪れたのがパレスチナ人の人たちが住んでいる『難民キャンプ』だったんです。『難民キャンプ』に行ったら一気に雰囲気が変わりました。破壊された建物の中に人が住んでいて、つい最近イスラエル兵に進出された場所などもありました。銃弾が道端に落ちていたりとか、遠くからの銃声が聞こえる地帯にも滞在しました。難民キャンプで出会ったパレスチナの人たちの話を聞くと、 その場所も移動する場所も制限されて暮らしていました。家族が1ヶ月前に殺されたという人や、銃声がなるので夜も安心して眠れないという人々にもたくさん出会いました。イスラエルのパレスチ ナのこの場所に訪れたということで、生と死がとっても近い場所にいることを感じました。この直接出会っ たのが自分の中では大きくて、戦争や歴史が身近に感じられた出来事でした。
TOMY
わたし自身、最初に世界一周ピースボートで行った時は、初めての海外でした。今まで海外に行くきっ かけもなかったし、日本でずっと生まれ育っている中で戦争や歴史とか自分にとってすごく遠かったです。 やっぱり世界一周してみて、もっと世界のことを知りたいなと思うようになりました。ピースボートの『カンボジアの地雷問題検証ツアー』に参加したときの話をさせてください。
カンボジアの地雷問題のことを考えるにあてって、ピースボートでは歴史を学ぶということが必須でした。カンボジアで衝撃なことが2つありました。1つ目は、カンボジアに地雷が埋まったポルポト政権下の4年の間に、大虐殺が行われていました。虐殺が行われた収容所から生還者(生きて還ってきたひと)から話を聞く機会がありました。
生還者と聞いて、私は勝手にお年寄りのかたいらっしゃるのかなと思っていたんですが、自分の両親より年下でした。50 代ぐらいの方だったのですごく驚きを感じましたし、虐殺のあった年代はなんとなく頭では聞いていたんんですけど、30年前に起こっ たことなんだと、その人の年齢を聞いて「ハッ」実感しました。そんなに遠くない過去に内戦で大虐殺が行われたということに、1つ衝撃を受けました。2つ目は、カンボジアのその生還者の方にお伺いしたのですが、平均年齢は、25歳前後だそうです。その話を聞いて、「わたしと同じくらいの年齢が平均年齢なのか!?」ということを肌で感じられました。どれだけの人が殺されたのかということを改めて実感しました。その話を聞いてから、実際にカンボジアの街を見てみると、高齢者の方がいらっしゃらなくて、若い人ばかりだったことに気がつきます。やっぱり、歴史を知って街中を歩いてみたことで、感じかたが変わります。こういった同じことが繰り返されないためにも、歴史を学んだり、 過去を知る。実際に行ってみることがすごく大切なんだなということを痛感しました。
カンボジアの地雷問題のことを考えるにあてって、ピースボートでは歴史を学ぶということが必須でした。カンボジアで衝撃なことが2つありました。1つ目は、カンボジアに地雷が埋まったポルポト政権下の4年の間に、大虐殺が行われていました。虐殺が行われた収容所から生還者(生きて還ってきたひと)から話を聞く機会がありました。
生還者と聞いて、私は勝手にお年寄りのかたいらっしゃるのかなと思っていたんですが、自分の両親より年下でした。50 代ぐらいの方だったのですごく驚きを感じましたし、虐殺のあった年代はなんとなく頭では聞いていたんんですけど、30年前に起こっ たことなんだと、その人の年齢を聞いて「ハッ」実感しました。そんなに遠くない過去に内戦で大虐殺が行われたということに、1つ衝撃を受けました。2つ目は、カンボジアのその生還者の方にお伺いしたのですが、平均年齢は、25歳前後だそうです。その話を聞いて、「わたしと同じくらいの年齢が平均年齢なのか!?」ということを肌で感じられました。どれだけの人が殺されたのかということを改めて実感しました。その話を聞いてから、実際にカンボジアの街を見てみると、高齢者の方がいらっしゃらなくて、若い人ばかりだったことに気がつきます。やっぱり、歴史を知って街中を歩いてみたことで、感じかたが変わります。こういった同じことが繰り返されないためにも、歴史を学んだり、 過去を知る。実際に行ってみることがすごく大切なんだなということを痛感しました。
Daniel
確かに、学ぶのは大事なことです。私が今日本に住んでいて気づいたことがあります。国によって学んでることが異なっていることを実感したエピーソードがあります。1つ質問です。第二次世界大戦のときには日本軍はオーストラリアまで爆撃したことを知っていますか?ご存知の方もいらっしゃると思うんですが、オーストラリア人はこの事実を学んでいます。私は、大阪のシェアハウスに住んでいたことがあります。日本人のシェア仲間もいました。ある日、2人で映画を見ていました。それはオーストラリアについての映画(映画名:オーストラリア)です。あるシーンに『ダーウィン』というオーストラリアにある北部の町が映し出されます。その『ダーウィン』の街を爆撃するシーンがありました。その時にはそれを見ていたシェア仲間が『もしかして、オー ストラリア人にとって当時、日本は敵だった?』とシェア仲間は驚いていました。学び方が立場によって変わるというエピソードです。
Tam
オーストラリアを日本が爆撃したということを映画で気づくというこのエピソードを聞いて、 私もピースボートに入っていなかったら、同じく理解していなかったと思います。もしかしたら、昔、勉強したかもしれないんですけど、そんなに記憶に残っていなかったです。私自身少なくともピースボートにくるまでの中で過去の歴史や、命が大切にされない社会について、学びの場があんまりなかったようにも思います。地球一周を通して訪れたことで、より関心を持つことができました。また、日韓クルーズを企画実行することで、たくさんの学び、視点があって、歴史に触れる機会がたくさんありました。韓国の環境財団という市民団体とともに一緒に船を出すことで、 韓国の友人もたくさんできてました。そして、たくさん聞く機会もありました。1つ私の中で、『そうか』という大きな気づきがあった出来事があります。自分にとって大切な気づきでした。8月15日という日を日韓で一緒に企画することがありました。日本では当然のように、その日は終 戦記念という認識でした。私もそう思ってきました。ですが、韓国の友人たちは、韓国では終戦記念日とは言わずに、光が取り戻される『光復説(こうふくせつ)』というんだよと教えてくれました。『そうか、そういう視点で違う名前で呼ばれてるんだ』と教えてもらいました。
Seung Jee
『光復説(こうふくせつ)』とは、光が戻ってきた日という意味が込められています。40年間続いてた、日本からの植民地支配か ら解放された日という意味を持ってます。なので、戦争によって失われた命のことを想いながら、大切な日として求められています。
Tam
その視点を持たしてくれた、韓国の友人との出会いというのが私にとってもすごく大切でした。さっ き紹介したピースアンドグリーンボートっていうのは、そういう気づきが多い船旅です。出会いがあって友人がで きて初めて気づけることっていうのがたくさんあるなという風に、ピースボートの船を出しながら感じ ています。
Seung Jee
そうですよね。韓国では植民地支配からの「解放」ということで大切な日です。同じ大切 な日でも意味合いや背景が違う、そういう私たちがともに世界一周の旅をしているということは、ある意味ですごいことですね。
Tomy
今、2人の話を聞いていて思ったんですけど、教えてもらえるってすごい大切な関係性という か、やっぱり信頼関係があったからこそだと感じ取れました。信頼関係があったから韓国の環境財団の人たちは話ししてくれたのかなと思い ます。関係がなかったら喧嘩になったり、お互いいい気持ちにならなかったり、言うのやめよ うかとなっていたかもしれません。信頼関係があったから知ってほしいなって言う風に、環境財 団の人は話してをされたのかなと思います。
En
若い人たちの行動を見てピースボート35年以上の歩みと一致しています。若者は歴史を学びそれを教訓として歴史を作っていく。非常に大事だと思っています。中国には歴史を知る大切さ残すことわざがあります。わかりやすく言い換えれば、『かつての教訓を若い者に伝え、2度と同じ過ちをしないということ』を伝えることわざです。簡単な例をあげます。例えば、自動車免許を取るために、自動車学校に行くきます。一番最初に見せられるのはビデオです。そ れはピカピカの車でもなければ、美しいドライブ景色でもなく、事故を起こした悲惨的な現場のVTRな のです。悲惨な過去を知った上で、同じ過ちをしないためです。同じように歴史を学び、知ること は今の時代にとっては、極めて重要なのです。先ほど、ダニエルとスンジのコメントを聞きましたが、戦争はもう既に終わったのではなく、世界のあるところで、今戦争はなおも続いているのです。歴史を理解してからこそ、客観的に今を直面し、未来を迎えることができます。 地球の未来は、若い者によって作られていきます。若者を含めて、私のような年齢の人も含め て、様々な年齢層の方が色々な国( シンガポール、大陸、台湾、タイ、米国など )から、乗船しています。この船の旅を通して、私たちは、手を携え て、心を1つにして、ともに美しくより良い世界を作り上げていくために努力していきましょう。
Tomy
生まれ、年齢、性別、生きてきたも違うこの6人、『命が大切にされる社会を作るために』はどうしたらいいのか、何が必要か、について経験談なんかを交えてお話しをさせていただきました。最後にメッセージをお願いします。
Tam
いのちを大切にする社会をつくるには、 まず1つ目に、「選択」できる自分であるというが大切ではないかなと思います。
過去の過ちを繰り返さないために、平和な未来をより良い社会にできるように、きちんと学んで、しっ かりと自分で選択するということ、もっといいますと、今、私たちが選択する物事は、未来に生きる こどもや孫たちの生きる時代を選択するっていうことに繋がるんではないかなと少なからず思うようになりました。自分自身が甥っ子や姪っ子ができて、 子ども達と接する機会が多くあって、世界一周の船にも子ども達が乗るようになりました。この子たちの未来を、私たちが 何を選択するかによって変わってくるなと思うと、社会のために何を選択したらいいのかというのを1つ1つ見極められるような自分でありたいなと思います。
過去の過ちを繰り返さないために、平和な未来をより良い社会にできるように、きちんと学んで、しっ かりと自分で選択するということ、もっといいますと、今、私たちが選択する物事は、未来に生きる こどもや孫たちの生きる時代を選択するっていうことに繋がるんではないかなと少なからず思うようになりました。自分自身が甥っ子や姪っ子ができて、 子ども達と接する機会が多くあって、世界一周の船にも子ども達が乗るようになりました。この子たちの未来を、私たちが 何を選択するかによって変わってくるなと思うと、社会のために何を選択したらいいのかというのを1つ1つ見極められるような自分でありたいなと思います。
Tam
2つ目は「選択」することをあきらめずに、続けることも大切だと思います。 これは、これまで多くの方々が、寄港地に訪れたときに、辛い苦い経験談を教えてくださったり、船に紛争地の人たちが乗って実体験を語ってくださいました。その方々というのは、いつも未来のために頑張ってね、伝えていってねっておしゃいます。彼らが諦めずに語り続けてきた、自分たちのような立場の人を2度と作らないために、 諦めずに語り続けてきたから、私たちは話を聞くことができてると思います。 だから、自分たちも、選択し続けることを忘れずにいたいと考えます。
Tam
3つめに やっぱり、『命が大切にされない社会』というのは、簡単にそういう方向に行ってしまうも のなんだということを忘れないことだと思います。なぜそう思うかというと、いろんな方のお話を聞いていると、「まさか、こんなことになるなんて思わなかった」と話してくださいます。 戦争の話にしても、虐殺の話を聞いても、原発の話、それから、今も起こっている内戦の話もそうです けど、まさかこんなこと。それを聞くとつまり、人が人を殺めるような方向に命が大切にされない社会になる方向転換は簡単になされてしまいます。だから、簡単であるということを忘れずにいる。戦争はしない、核兵器のない、原発のない、そして友だちを大切にする社会を作ること。、命は何よりも大切にするべきなんだということを、常に忘れないでいる、行動し続けるというのが大切だと思います。今言った、3つのお話は、決して自分自身 がパッと生まれて目覚めて思ったわけではなく、様々な国で出会った人々に関わってこれまでの交流の中で教えてもらったことです。
そして、一緒に働く仲間が経験したことを聞きながら、仲間に教えてもらったことです。私自身の考えを、持ち続けたり、行動し続けたりっていうのは、私1人では絶対にできないことなんですよね。
そして、一緒に働く仲間が経験したことを聞きながら、仲間に教えてもらったことです。私自身の考えを、持ち続けたり、行動し続けたりっていうのは、私1人では絶対にできないことなんですよね。
Tam
最後になるんですけど、今回の船旅には本当に多くの地域の方にご乗船いただきました。船内では、価値観の違いや、文化背景の違いなどもありますけど、それにお互い共感したり、理解を示し会いながら、多くの友情関係が育まれています。そういう場を見ながら、「やっぱりピースボートクルーズはこういう場所をこれからも、もっともっと多く作っていきたいなっ」て改めて思うようになりました。ピー スボートというのは、人と人、人と歴史、人と文化を結んで行く旅なんです。その結び目の数だけ、結んだものの数だけ、平和について考えるきっかけができていくんではないかという風に信じて、船を出 し続けています。
ご乗船いただいた皆さまには本当に感謝申し上げます。 そして、ピースボート35周年続いてきました。これまでたくさんの方の支えがあってここまでこれまし た。本当にこれまでありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いします。